幸運<<<<<<<<<納得

言霊の存在を素朴に信じる一般的な日本人として、「幸運なんていらない」などとは口が裂けても言えない。

ただ、京都に住んでいたころからあらゆる神社仏閣のお守りというお守りをかき集め、神も仏も端から端まで祈り倒したあげく重要な選択肢をことごとく外して脳幹出血までしてしまった私としては、いらないとまでは言わないまでも幸運なるものにこっそり中指立てたくなっても許されると思いたい。

では幸運に頼むのはやめて実力自力で生きていくと決意して勉強と仕事に励み、成果と報酬を追い求める人生が正解なのかと考えると少し違和感がある。限界まで自分を追い込んで自分の力なるものを鍛え上げ、成果と報酬を手に入れたとしても、私のような卑屈な人間の目には大した努力もせず親の金が毎月百万振り込まれてくるいい歳したおっさんの姿や半分詐欺みたいな情報商材を売りさばいて大金を稼いで飲み歩くろくでなしの姿がチラチラ映る。

そんなものは気にせず前だけを見て走ってきたつもりだったが、頑張った結果が脳出血なんだからやってられない。病院のベッドに横たわると周りの景色が良く見えるのか、今まで見ないようにしてきたそういった「勝ち組」の姿がはっきりと見え、どうにもこうにもやる気が出なくなってしまった。職場に復帰して1週間だが、仕事に身が入らない。身が入ったところでやるせない未来が見え透いているので身を入れたくない。昼夜問わず働いていたころからは考えられないほど腑抜けになってしまった。このまま腑抜けになって死んでいくのも仕方ないが、さすがにそれはいたたまれない。

運も悪いし体も悪く、卑屈で嫉妬深い私がじゃあどうすれば幸せになれるのか。キーワードは「納得」だと思っている。私は自分の人生に「納得」したい。自分の周りの外的環境を変えるのではなく、内心を変えて「納得」することこそが自分が目指すべき幸福への道だ。長期間入院していて気付いたが、自分の現状が他人から見て幸せか不幸せかが自分の幸不幸を決めるわけではない。私よりもずっと小さいのに車椅子で散歩する男の子の幸せそうな顔を見て、大したことない病気で入院している私の2倍以上は生きたであろうババアの発するヒステリックな奇声を聞く内に、事実は幸不幸を左右する要素ではあっても決定する要因ではないと確信した。前者は事実に納得していて、後者は事実に納得していない。納得が笑顔を生み、不服が奇声を発する。

多分私は平均的な同年代に比べるとかわいそうだと思う。しかしここでの問題は客観的な事実として不幸かどうかということではなく、実際私が「平均的な同年代に比べるとかわいそうだ」と思っていることだ。私は自分の状況に実は1ミリも納得していない。そのことが脳幹出血なんかよりよっぽど大きな問題なんだと気づかされた。これから私は「納得」を探す旅に出る。それは他家のアガり後に自分のツモ牌を覗くような、無意味な行為なのかもしれない。現実を変える力はなく、私の倍満親被りは変わらないのかもしれない。それでも私は牌をめくる。そこに納得があると信じているので。

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